EPISODESOH 20th Anniversary

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EPISODESOH 20th Anniversary

EPISODE.2

名もなき若者が作った
祭りが、歴史を作る

にいがた総おどり祭参加チーム

「新潟総踊り連 あじかた心」元代表/「ピース」代表

阿部幸代

にいがた総おどりを立ち上げ期から支えてきた踊り子の阿部幸代さん。長年代表を務めてきた新潟市南区の演舞チーム「あじかた心」を引退し、今はOBOGたちと結成したチーム「ピース」で活動しています。チーム演舞にとどまらず、下駄総おどりの振り付けや総おどりの運営にも携わりながら歴史を見続けてきた立場からのエピソードや、「市民が育む文化」の意義を伺います

“元気配達人”として踊り子としての活動をスタート。

阿部さんは総おどりが始まる前から、踊りを嗜まれていたんですよね。最初に踊りを始めたきっかけを教えてください。

阿部私がお嫁に来た主人の実家が、当時は西蒲原郡味方村と呼ばれていたところです(現在の新潟市南区)。そこがね、北海道の様似(さまに)町と凧が縁で、姉妹町村になったんです。そしたら当時すごく北海道でよさこいソーランが盛り上がっていて、様似町も札幌の祭りに参加し始めていたんですよね。
私自身、もともと音楽や踊り、詩を書いたり曲を作ったりという、何か表現することがやっぱり好きだったんでしょう。でも、うちの実家は小さな漁師の家で貧しかったので、お稽古事習いに行くことはできなかった。それが、様似町との交流をきっかけに踊りと出会い、その先にあるにいがた総おどりで花開くというところに繋がったんです。

踊り子としてのルーツが北海道だったとは驚きです。当時、踊ってみていかがでしたか?

阿部表現することが好きだったので、「(味方村が踊りに取り組むことに対して)うん、手伝うよ」と。村で集まれる人が集まって、鳴子を持って、当時の様似町が前の年に踊っていた曲を譲ってもらって練習しました。様似町の根白さんが本当によくしてくださって、私たちを踊りの世界に引き込んでくださったんですよ。
それで「あじかた心」の前に作ったチームで、新潟県で最初にできたチームだったので、本当にいろんなところから引き合いがあって、楽しくて楽しくて、「元気配達人だ」なんて言いながら、当時やっていたんですよね。

何度断っても諦めなかった若者たちが語った、夢の祭り。

にいがた総おどりとの接点はどこで生まれたんですか?

阿部私たちが踊りでやりたかったこと、味方村の縦貫道路でもいいし、田んぼでもいいし、役場の人の心を動かして味方村が活性化できるような大きな祭りを、この西蒲原郡味方村で開けたらすごいよねって夢見ていたことだったんです。でも、それは仕事をやりながらでは無理だし、大きな役場の人を動かすのも無理だしと諦めかけていたんです。そんなときに、発起人である能登君(現総合プロデューサー能登剛史)や寛君(現総合ディレクター岩上寛)たちからの度重なるアプローチがあったんです。うちのチームの事務局のメンバーから「またあの人たちから連絡が来たんだよ、明日出てくれって言われた」って。でも当時全員が同じ動きをする振り付けからフォーメーションを入れる踊りにチャレンジしていたから、突然では組み直せないから無理だから断って。

でも総おどりの事務局もめげない(笑)。

阿部諦めずにいろんなときにアプローチをくれるので、いったいこの若者たちは何をしたいのだろうと、一度ちゃんと話聞かないとだよねって言って、うちのチームのメンバーと一緒に会ったんです。
当時のワシントンホテルの下にあった喫茶店でね、気づいたら2時間を超えるくらい長い間話したんです。私それで本当に感心したのが、「僕たちはこういうことやりたいんです!」と、まだ本当に社会的には名もない青年2人が本当に一生懸命話をしてくれたことでした。そこから始めたんですよね。

総おどり立ち上げは、ピンチと嬉し涙の連続。

立ち上げ期は何かと大変だったかと思います。当時のエピソードを教えていただけませんか?

阿部初年度開催直前の初夏の頃、「何に一番困っているの?」と聞いたら、能登君が「阿部さん、お金がない」って。みんな手弁当だったし、当時は参加チームからの参加費もなかったんです。だから事務局のメンバーの顔がどんどん痩せていっていて(笑)。それで勤め先でカンパを募ったり、食材を持ち寄ってカレー作ったりすると事務局のメンバーがみんな泣くんです。他にも子供がお小遣いをカンパしてくれたりとか、パーマ屋さんで激励されたとか、いろんな人たちの協力をいただくたびに、ありがたいって泣いていましたね。
ボランティアスタッフも、業者の方たちも、さらにその周りの人たちも、みんながなんとかこの祭りを成功させたい、この若者たちを手伝いたいという気持ちが、一年目ものすごかったです。

阿部さんが立ち上げたチーム「あじかた心」は正式名称が「新潟総踊り連 あじかた心」です。敢えて総おどりの名前を冠した背景を教えてください。

阿部にいがた総おどりの精神は、自分たちがよければいいのではなく、個人個人やチーム、そして地域の横のつながりを大切にしています。チームの間に上下の関係も作りません。それは私たちも同じ気持ちであり、同じポリシーを持っています、同じ道を同じ志で歩いていきたいというメッセージなんです。
メンバーそれぞれ個性があり、得手不得手もありますが、でもそれが社会であり、世界であり、いろんな人たちで一緒にいいものを作り上げていくチームになりたい。それはにいがた総おどりそのものでもあります。

にいがた総おどり立ち上げから20年、チームにも祭りにもいろいろなことがあったと思います。関わり続けてきたからこそ思うことを伺いたいです。

阿部来月67歳になりますが、能登君たちと出会った頃は40歳手前かな、本当にいろんなことありましたよね。大変なこともいっぱいあったけど、どんな場合でも、やっぱり「総おどりと共に歩く」という軸はブレませんでした。総おどりは、何かあったときにそこから元に戻ろうとする力よりも、その先に戻ってくるんです。その力がすごいなと思って。
当初は、この人たちになんとかご飯食べさせなきゃとか、言葉遣いとか服装とかで大人の人たちに「だから若者はダメなんだ」とか言われて社会的に失敗しないようにとか…そういう母親目線が大分あったんです。それが、今度は今まで彼らが体現してきた「一歩下がったときに3歩くらいゴンッと前に進むエネルギーや知能」といった力に、「もう参った、任せるわ、あんたたちに」という感じ(笑)。もう安心してね、オイラは後についていくからみたいな感じで本当に思っています(笑)。その進む力は大したもんだと思うよね。

文化はプロが提供するものだけじゃない。親しむことが、人生の筋肉になる。

まさに息子たちの成長を見届けているお母さんのようですね。阿部さんのような方々がいらっしゃったことで、祭りが何倍にも大きく、太いものになっていったことが伝わります。
一方で、かなり生活に食い込んでいるようですが、必ずしも生きていく上でこういった文化活動は必要でしょうか?

阿部生きる上で、目指すものや熱いもの、感動といったものは、生活の外にあるようでいて、実は基本的な生活を支えているのがその部分だと思うんです。生活が背骨だとしたら、文化や情熱が背骨を支えてくれる筋肉。だからにいがた総おどりも脂肪じゃなくて(笑)、筋肉でありたいですよね。

文化を作る活動というと、代々続く家元やプロが担うようなイメージもあります。1人の踊り子としても祭りに関わるなかで感じる「市民が文化を作る」意義をどのように感じますか?

阿部プロだけが継承していくものではなくて、アマチュアや市民が生活の中で継承していく文化もあります。アマチュアの人口が多ければ、プロのところに飛び込むこともできる。アマチュアがプロと同じ舞台に立ったり、コラボしたり…そういう意味では、にいがた総おどり、そしてアート・ミックス・ジャパンは大事な場ですよね。
踊ることで、歌舞伎でも、能でも、民謡でも、プロの練習や表現方法とか伝えたいことを理解する感性が育まれるし、次の“何か”に触れる一歩になります。
私たちはプロの三味線プレイヤー史佳さんの楽曲「桃鳥花-toki-」を踊らせてもらったことがありますが、踊ることで制作者の人生を僅かでも感じることができるんです。
いつも私たちはにいがた総おどりの中で何かしらのハッとするような提案ができたらと考えていて、「桃花鳥-toki-」も新潟を代表するアーティストによる生の三味線と踊りのコラボという今までにない形でした。それが総おどりのクオリティにちょっとでもいい役割を果たせたら嬉しいですね。

現在阿部さんは「あじかた心」を引退され、OGOBで「ピース」というチームを立ち上げられています。なぜ敢えて引退を選ばれたのでしょうか?

阿部時代は変わっていかないといけません。いくら大事にしているものでも、変わっていくことが大事。チームは生き物だから下の世代も成長していくし、彼らがもっとチャレンジできるように、そして私たちは私たちの年代でできるものを楽しみながらやっていきたいと決断しました。でも総おどりへの想いは何も変わらないし、死ぬまで絶対変わらないわね。

にいがた総おどりは、「現在進行形の歴史」である。

いよいよ20年目、そしてまだまだ先へとにいがた総おどりは続いていきます。創世記を担った1人として、これから期待することはありますか?

阿部次の時代に託したいことは、「歴史を作っていけよ」ということですね。祭りでもどんなものでも、最初からそれが歴史だったわけではなくて、年数を重ねて歴史になっているので、にいがた総おどりが潰れずに20年、コロナはしかたがないし、それもにいがた総おどりの歴史の一つ。その間に蓄えるものはしっかり蓄えて、それでまたその先続けていってほしいです。
にいがた総おどりは歴史になりますよ。過去形ではない、現在進行形の歴史ですよ。そうやって歴史は作ることができるんだと、見せていってほしいです。

長年見続けてきたからこその信頼と期待ですね。

阿部本当に立ち上げ当初に能登君や寛君が心に描いたものが、しっかりと実現できていけたらいいなと思います。2人だったのが100人になり、100人が1000人になり…そうなって進んでいけたらいいですよね。
祭りを作る側と踊り子との気持ちのやり取りというのは、他の祭りにもあると思うけど、にいがた総おどりは顕著にそれが現れる祭りなので、大変ではあるけども、ぜひそこを通していってもらいたいです。主催者と参加者ではなくて、みんなどこか一緒に作っているんだよという思いをね、やっぱり持ち続けてもらいたいと思います。

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