EPISODESOH 20th Anniversary

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EPISODESOH 20th Anniversary

EPISODE.8

本気で賭ける姿に、
初めて人の心は動く

ISANA 代表/家具デザイナー/家具職人
DIY学校校長
中川雅之

「第一回にいがた総おどり祭」の制作に、当時新潟大学1年生で携わった中川雅之さん。大学生活=総おどり生活と言っても過言でもなかった中川さんでしたが、4年間走りきったときに湧き上がった感情は、期待していたものとは大きく違うものでした。そこから彼の人生と総おどりは直接的には関わりません。しかし、自分で0→1の世界を生み出す、冒険のような人生は常に総おどりと共にあるようです。

最初は踊りにも新潟にも、思い入れがなかった。

中川さんは家具職人で、染織家の奥様と現在ISANAという屋号で活動していらっしゃいますね。総おどりとの関わりも深いそうですが、まず現在のお仕事について教えてください。

中川無垢材で家具のデザインから設計、加工、制作、販売の、0から10まで自分で行っています。妻は布を染めたり、織ったりして、それをさらに雑貨に仕上げたりしています。
新潟市秋葉区の古津という地域に工房があって、そこが僕たちISANAの物づくりの拠点。木工のDIY教室も開催していて、教室の卒業生が一人竹細工職人として独立してうちの工房の一室で制作をしています。一つの建物の中でいろんなもの作りをすることになっていて、ISANAが始まって約10年、結構面白い感じになったなと感じています。
さらに新潟市中央区の沼垂エリアにある「沼垂テラス商店街」というところで、家具雑貨の販売と、喫茶室の運営もしてます。

ご出身は、大阪ですよね。新潟に来たのは大学進学がきっかけと伺っていますが、どうして新潟だったんでしょうか?

中川正直、関西の大学に行こうとしていて、でも第一志望に受からなくて、それで縁もゆかりもない新潟に来る羽目になってしまったという状態でした。
その中で自分の中で何か変わらないと、僕、だんだんダメになるという思いに切り替わっていきながら、新潟大学に入学したんです。まあ、入学式の日は風邪引いて式には行ってないんですけど(笑)。

その自分を変えようというタイミングで出会ったのが…。

中川自分変えようと思っていたけど、何をしたらいいか分からなかったんです、当初。そんなある日帰り道に、大学の食堂の前を通ったら、なんかわさわさってやっている人たちが10人くらいいて。結局それは響’連(にいがた総おどり祭実行委員会が運営しているホストチーム)の大学生たちが、踊りの練習をしていたのですが、全然踊りなんてやりたくないけどなんかすごい楽しそうだな、あの人たちって、遠目から歩いて見てて。で、僕から声かけたんですよ、「何かのサークルですか」って。そしたら胴上げされたんです。すごくないですか?意味わかんないですよね(笑)。それが出会いなんです。

学生と社会人とが一緒に祭りを作る、その面白さにのめり込む。

出会い頭に胴上げは、衝撃的すぎます(笑)。しかもそれがにいがた総おどり祭立ち上げの年なんですよね。そこで総おどりライフが始まると。

中川最初は、踊りとか衣装とかメイクは、正直気が進まなくて。ごめんなさい、こんな話。いいですか(笑)?
でも学生主体で社会人も混じってイベントを作るというのは面白そうだと思って、段々踊りも楽しくなってきて、一生懸命やっていたら僕含めて4人の大学生が、大学生や響’連のイベント出演や練習の管理を任されるようになったんです。社会人を相手に音響の指示とか結構大変なことを19歳でやっていました。でもそれがすごく楽しかったんですよね。大学1年生後半から2年生ぐらいはそんな感じで。「やりたい」といったことは、どんどん挑戦させてもらえました。

「なんで新潟に…」から、どんどん楽しくなってきましたね。例えばどんなことに取り組んだのですか。

中川自分の特技を生かしてできることを考えたときに、総おどりの会場は、可能性がたくさんあったんです。進行台本に載っている会場の図面の縮尺とかがすごい適当で、だから椅子やテントの数も適当で。それで万代シティを端から端まで全部計測したんですよ、僕。後輩連れて巻尺持って、万代シティの信号が青になった時に、わーっと走って計測して、2階までの高さも測ったり。CADを使って図面にしたら、万代シティの道がまっすぐじゃないことが分かったりして。道の中心線がちょっとずれているんですよ。

能登総合プロデューサーその図面、今もベースに使ってるよ。

中川よかったです(笑)。

追いつきたい二人の背中。全力投球すれば、何か掴めると思っていた。

3年生になってからも、そういう意見もどんどん出していって…。

中川でも、3年生の第3回にいがた総おどり祭が終わった後に、何かこうモヤモヤしたんですよね。この感じだったら寛君(総合ディレクター・当時新潟大学学生)に一生勝てない、能登さん(総合プロデューサー)になんて絶対追いつけない、なんか悔しかったんです。
学生としてはたくさん関わっているけれど、その二人はやっぱり文字通り命をかけて、それでご飯食べるためにやっていて。僕は安全なところから自分のできる範囲で無理してやっているという状況が、自分で許せなかったんです。それで、3年生の後半から4年生の1年間は結構深く関わらせてもらって、基本的には会場のあらゆることを任せてもらい、就職活動をせず、朝大学にも行かず、にいがた総おどり祭の事務局に通う生活になりました。

思い切りましたね!やり切るぞと覚悟を持ってやった1年、終わってどうでした?

中川そこなんですよ。終わってモヤモヤが晴れなかったんです。1年だけとはいえ結構ガッツリと関わっていろんなこと経験させてもらったと思うんですけど、僕はそこでモヤモヤはずっとモヤモヤしたままだったんです。やっぱり能登さんや寛君は、ゼロから作っていて、僕は多分1からやらせてもらっているんです。だから到底追いつかないです。
1を5にする、10にするというのも大変なんですけど、僕0→1やりたいんだなって、そのときすっごく思って。だから自分でもやりたいことをゼロから作ることに挑戦して、二人に追いつきたいなというのがあったと思います。

そこから家具職人になるという答えを導き出したわけですね。

中川僕は家具とか空間をつくることとかが好きなので、それを軸にしていろんな人が交わるようなチームで、ゼロからやりたいと思ったんです。能登さんは27歳の時ににいがた総おどりを始めていたから、僕が22か23歳ぐらいの時に立てた目標が、27歳までに僕は自分で何か一つやり始めるということでした。それで家具職人の道に踏み出す訳ですが、やっぱりものすごく深い世界だし、未熟すぎて、結局めちゃくちゃ悔しかったんですけど1年遅れて28歳でISANAを始めたんです。そうなんですよ、悔しいんで、それは、もうずっと。

シャッター商店街との向き合い方に、僕は最初間違っていた。

家具職人としてと同時に、沼垂という場所にも意味を感じます。ISANAの喫茶室があるのは沼垂テラス商店街という、地域活性などでも注目を集めているエリアですが、ISANAスタート時はまだその商店街の名前もない時代ですね。

中川そもそも10年前、あそこにお店を作るときに、喫茶をやるつもりはなかったんです。自分が家具職人で妻が染織をしているので、自分たちの作ったものを小さくてもいいから見てもらえるギャラリーのような場所を作りたかった。響’連の先輩で大学の先輩でもある人が、たまたま見つけてくれた沼垂の商店街は、当時はおじいちゃんおばあちゃんたちがやっている八百屋さんが4-5軒だけの、ほとんどシャッターが閉まっている状態でした。

もともと喫茶は念頭になかったとは、驚きです。

中川借りようとしていたときに、地元の人たちと、商店街の一角で焼肉しながら話をする機会があって。皆さんの話では、ISANAをやろうとしている通りは、昔はたくさん人通りがあって活気があって、「俺たちはその昔賑やかだった街を目指して、街を再興できる方法を考えながら色んなことやっているんだ」と。「そのためにはここのシャッターを一つでも多く開けたい」という思いを聞いて、僕は間違っていると思ったんです。

どこが違うと感じたんですか?

中川よそから来た27、8歳の若者が、そんなに地域の人たちが大事にしているシャッターを、お金出して借りるとはいえ、生活のためにも他でバイトしたり、製作の時間とかを取ったりすると、土曜日か日曜日しかシャッターを開けられない。つまり借りても平日はシャッターを閉めたまま。それは街の人たちの思う姿ではないと思ったんです。なので、ISANAのみでお金を稼ぐことと、シャッターを1日でも多く開けるという、この二つを目標に頑張ってみることにしたんです。
家具も雑貨も最初からたくさん売れるものでもないので、来てもらって、コーヒーを出して、ここの通り面白いでしょって知ってもらって、それで生計を立てようと考えたんです。

総おどりで学んだ「本当の意味で賭けている人に、人の心は動く」。

その時はまだ「沼垂テラス商店街」の概念はなくて、シャッター通りということで、まさに大学時代に望んでいた0→1で商店街の再興に関わられたわけですね。

中川そういう風になったらいいなとは思っていましたね。ここにたくさんお店ができて、賑わったら、楽しいだろうなという思いもあったんで。最初の3年くらいは本当にきつくて、いろんな意味で。なかなか大変な時期だったんですけど、それがラッキーだったんです。

きつい状態がラッキーなんですか!?

中川僕この「ラッキーは自分で引き寄せられる」って、総おどりで学んだことなんで、ちょっとラッキーは分かっていたんです(笑)。
やっぱり、シャッターを開けようとか、他でのバイトはやめようというのは、大事なことで、それは能登さんとか寛君がやっていたことなんです。安全な自分の仕事はあった上で何かをやりたいというのは、越えられない一線っていうものがあるんですよ。で、でも、もうそれしかないんだって、これに本当の意味で賭けているってなった時に、初めて人の心って動くんです。初めて助けてくれたり気にかけてくれたりする連鎖が始まるっていうことを嫌というほど見て知っていたんです、僕は。絶対それがやりたかったから、本当はしんどかったんですけど、満足はしていました。

とはいえ、思い切った賭けですね。

中川なんかちょっと無茶でしたよね、今考えると(笑)。

奇跡を期待させてくれる、それがにいがた総おどり。

大学4年生の時に感じたモヤモヤが晴れたり、当時見たかった景色がISANAで見られましたか?

中川だと思います。今も継続中ですけど、ちょっとは近づけたかなと思っています。

これから、「こんなことやっていきたい」と、思い描くものはありますか?

中川能登さんや寛君の名前を挙げてきましたが、いろんな人に育ててもらいました。備品をレンタルしてくれる業者さん、音響さん、屋台を盛り上げてくれる業者さん…そういう人たちがちゃんと大人の対応で、当時学生の僕のやりたいことの意図を汲んでくれたこと、年々、すごいなって思うんです。あの時のレントオールさん、サウンドエイトさん、FPFの社長さんやスタッフの人とか…若い人たちから、無理だと思うことでも何かやりたいって言われた時に、嫌な顔せずに協力できるって相当凄いことなんですよ。そういうことができるかっこいい大人になりたいです。

にいがた総おどりから離れた今、中川さんの目にはどのように映っていますか?

中川僕が毎年楽しみにしているのは、響’連の2日目、万代シティでやる一番最後の踊りの YouTubeです。ちっちゃいスマホの画面で見るんですけど、すごいなーって思いながら見ています。

どういったところが「すごい」のでしょうか?

中川僕、バラバラの人たちが、何か一つになって目指すのがいいと思っているんです。だけど、一つになれないとも思っているんです。
だからこそ、奇跡起きるんじゃないか説。もしかしたら、その2日目の夜の響’連の踊りの4分のうちの3秒くらいは、みんなの気持ちが一つになっている瞬間があるんじゃないかって。みんなというのは、響’連の踊り子だけじゃなくて、当日ボランティアも含めたスタッフさんや協賛をしてくれた人、チームさんとかいろんな人たちの気持ちが一点に集まることが、もしかしたらあるかもしれないっていう可能性を見せてくれるようなお祭りだと思っているし、それに挑戦し続けて欲しいなって思っています。期待はそれですね。そこに僕は価値があるお祭りだなと思っているので。

PROFILE

中川 雅之 Masayuki Nakagawa

家具デザイナー/家具職人/DIY学校校長
1983年大阪府生まれ。新潟大学工学部建設学科建築学コース卒業後、岐阜県立木工芸術スクール木工工芸科へ進学。卒業後は奈良の山奥にある家具製作会社勤務ののち、京都の山奥にある家具工房でシェーカーデザインの家具を学ぶ。2011年に新潟市中央区沼垂及び秋葉区古津にてISANAを設立。二級建築士。
にいがた総おどりとは新潟大学進学時に出会い、4年間祭りの制作と踊りに深く携わる。妻でテキスタイルデザイナーで染織家、そしてカフェ店長でもあるなぎささんとの出会いも総おどり。

ISANA公式サイト

【イサナ喫茶室】
新潟市中央区沼垂東3-5-22(沼垂テラス商店街内)
080-6118-8130
10:00-18:00 open
火曜・水曜・木曜定休日

【ISANA FACTORY】
新潟市秋葉区古津1840
※要事前予約:080-5029-2941(担当:中川)

EPISODE MOVIE

EDITOR'S NOTE取材後記 ライター:丸山智子

「モヤモヤが晴れなかったんです」。大学3年から4年にかけての1年間、ほとんど全ての時間を投げ打って取り組んだ結果。「きっと、ものすごい達成感を得られて、すっきりした気持ちになれたんだろう」と予想していた私にとって、言葉を失う答えでした。なんて残酷なんだと思ったと同時に、ものすごく真っ直ぐに、誤魔化さず、感じた感情から目を逸らさずに、昇華してく生き方に、心が何度もヒリヒリしました。
総おどりは、踊ることであり、祭りであり、そして離れていても人生と共に息づくものである。中川さんから学ばせていただきました。
ISANAのプリン、絶品なので、ぜひ皆様喫茶室に遊びに行ってみてください。