EPISODESOH 20th Anniversary

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EPISODESOH 20th Anniversary

EPISODE.7

文化に溢れている街・新潟に
胸を張って

永島流新潟樽砧伝承会 代表
岡澤花菜子

ニコニコと春の陽気のように朗らかな雰囲気を醸し出す岡澤花菜子さんは、新潟の伝統芸術の一つ・樽砧の演奏家です。バチを持つと柔らかな印象は一変、激しくバチを叩き続け、躍動感あふれる演奏姿は、目が離せなくなるほどアグレッシブ!
創流した先代からバトンを20代で引き継ぎ、伝統を新しいステージへと高めようとする彼女の深い想いと考察、そしてアクションは、新潟の文化が秘めている魅力と社会に与える力強さそのものです。

舞うように叩く樽砧。総おどりは、踊り子とのセッション

まずは岡澤さんについて、そして演奏されている新潟の楽器「樽砧」について教えてください。

岡澤「樽砧」という江戸時代から続く新潟伝統の楽器を演奏する、「永島流新潟樽砧伝承会」の代表を務めています。樽砧は酒樽や醤油樽を木槌のようなバチでトントンと叩く、甚句の伴奏になることが多い楽器です。地域によって差がありますが、私たちの会は2017年に亡くなられた永島鼓山先生が県内の色々な樽砧を研究して7つの叩き方を編纂して、それをさらにパフォーマンス性を高めて江戸時代に演奏されていたようなより勇壮な叩き方に近づけた演奏をしています。
舞を舞っているような振りの激しさが大きな特徴の一つで、踊りの伴奏の際は、リズムや音の質、踊り子さんとの息の合わせ方で、振りと音と楽曲が一緒になっているところが、他の楽器ではない樽砧の変わったところだと思います。

激しい振りでずっと叩き続けられるので、見ていると演奏に感動すると同時に、スタミナがすごいなといつも思います。そんな激しい演奏をしている岡澤さんは、運動は…?

岡澤実は全然できません(笑)。

伝承会としてのステージや下駄総おどりの伴奏など、樽砧の調べはにいがた総おどりに欠かせないものですが、岡澤さんにとって総おどりはどのような思いがありますか?

岡澤私は、伝承会に入って初ステージが総おどりでした。5日間開催の初日、市役所前の下駄総おどり行列からスタートだったのでものすごく圧倒されましたね。そして2日目の朝に初めて万代十字路に立ちました。総おどりは初心に立ち返るスタートの場所であり、一年間かけて自分がどうなったかを皆様に見ていただく場所。始まりと集大成の場所という感じがすごく強いです。

総おどりならではの醍醐味はありますか?

岡澤自分たちだけで演奏する時は、一方的に自分たちのエネルギーとか伝えたいことをお客様に伝える場所ですが、踊りの伴奏になるとやっぱり踊り子さんとの熱量の交換になってくるので、踊り子さんがどれくらいのテンションできてどういう踊りをして、それに対してお客さんがどういう反応を見せるか。そしてそれに対して自分たちがどういう風にサポートしていけるとか、セッションではないですが、お互いのやりとりみたいなものが、伴奏の時はすごく楽しいなと思います。

いじめられていた小学生時代、樽砧を褒めてくれた“怖すぎる”恩師との出会い

約10年、樽砧の活動をされているわけですが、岡澤さんが樽砧を始めたきっかけを教えてください。

岡澤小学校の時、いじめられていて一人ぼっちだったんです。学校にあまり居場所がないと思っていて。得意なものもないし、運動もできないし、自分はここになんの意味があっているんだろうなと思っていた時に、学校の授業で5年生から樽砧を始めたら指導にきていた永島先生がすごく褒めてくださったんです。「今までこの学校にいた人の中で一番うまいかもしれない」とすごく褒めて、熱心に指導してくださったんです。その時にやっと学校に自分の居場所ができた、樽砧が自分の居場所になったような感じがして、樽砧への想い入れが深まっていきました。小学校を卒業してから一旦は離れましたが、中学二年生の時に伝承会に入って、以来ずっと続けています。

恩師である永島鼓山先生はどのような方でしたか?

岡澤先生は昭和の芸人という感じの人で(笑)、めちゃめちゃ怖かった人です。もう廊下の100m先から歩いてくるのが分かるくらい空気が変わるんですよ。
少年のような負けず嫌いさをお持ちで、自分の関節の可動域や筋力、体力と、自分が今できる最高の演奏の到達点をいつも見極めて演奏されていました。ステージドリンクが日本酒だったので、「ちょっと酒ひっかけた方がうまく演奏できるぞ」というアドバイスはあまり活かせないと思いますが(笑)、でもあれくらい奔放だったからこそ永島流という一つの樽砧を完成させられて、あそこまで極められたのだと思います。

今日は実際に樽砧を持ってきてくださいましたが、これは永島先生のものらしいですね。

岡澤先生が一番最後にご自宅で叩いていた樽砧だと思います。先生はもともとこのゆいぽーと近郊のご出身なので、里帰りではないですが嬉しいかなと思って、形見の樽砧に麒麟山を入れて持ってきました。上に乗っているバチは私の父が作ってくれたバチです。

文化が溢れる街・新潟という“置かれた場所”で咲く

どんな魅力を感じて、10年以上樽砧と関わり続けてこられたのでしょうか?

岡澤やっぱり樽砧が持っている、どこまで行っても終わりがないところは続けてきた大きな理由の一つです。曲が1曲しかないので、叩けるようになったら終わりという面もありますが、細かい部分を突き詰めていくとどこまでも終わりがないんですよね。探究がどこまでもできて、答えがどこにもない。先生自身も自分の年齢や周りの人間の変化に沿って変えていって、「この方がかっこいい」「この方がきっと上手に見える」とかよくおっしゃっていたので、変化を恐れないところはすごく探求していく中で楽しいですし、そうやって努力してきたことが報われる楽しさも実感しています。

樽砧は新潟を代表する文化の一つとして、県内はもとより県外や海外でも演奏活動をされています。新潟の文化を繋いでいる立場から、今の新潟の文化の立ち位置をどのように感じていますか?

岡澤新潟は、すごく文化に溢れている街だなと私は思っています。ただ実際に新潟に住んでいる人で、それに触れたり興味を持ったり、「新潟ってこれがあるからすごいでしょ」と、胸を張って言える人は少ないなとも感じています。
子供の成長や心を守ることと文化はすごく密接で、若い世代が新潟という街をどれだけ好きになるかの要素の一つに、文化は大きく関わってくると思っています。だからこれからの新潟を考えたときに、現代的なものから伝統的なものまで、今ある新潟の文化がもっと新潟の人の間に、日本中に、そして世界中に広まっていったらいいですよね。「新潟はこんなにすごい街だし、こんな新潟に生まれた私たちってすごくない?」と、みんなが胸を張って笑って言えるような世界になっていったらすごく嬉しいし、自分もそういった新潟の文化になれたらいいなと思います。

樽砧という文化一つだけを見つめるのではなく、そんな風に広く新潟の街に結びつけて考えられるのはどうしてでしょうか?

岡澤地元が嫌いだった時期もありましたが、中学校の入学式で理事長先生に言われた言葉で、私の座右の銘にもしている「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。望んだ場所ではなかったと諦めるんじゃなくて、ここがどうやったら自分にとっていい居場所になるか努力して、周りの人たちを尊重して、自分の環境をより良い方向に変えていくことをまずしてみようという意味で、その言葉を聞いて、まず自分にできることを頑張ってみようと思ったんです。そこから自分が置かれたこの新潟という街について、自分ができることをもっと考えるようになりました。

樽砧をアップデートさせながら、新潟の多彩な文化とコラボしたい!

今回の会場である施設「ゆいぽーと」では、新潟の文化のコラボ作品を上演された、思い出の場所だと伺いました。

岡澤2015年夏に、りゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)を拠点に活動する舞踊団・Noism2さんと「赤降る校庭 さらにもう一度 火の花 散れ」という公演を、この会場で行いました。独奏から離れて、ダンスに合わせた音を作る経験が初めてだったので手探り状態でしたが、メンバーも当時よりスキルアップしているので、またぜひ一緒に何かできればと思っています。やりたいこともできることも増えたし、もっと違うものができると思います。

それは楽しみですが、永島流の樽砧は基本の7種類の叩き方に則った1曲を極める流派で、新しい形を作っていく作業は“アリ”なんですか?

岡澤先生も晩年「今の叩きだけが正解じゃないし、この叩きだけをやればいいというわけではないから、もっと新しいものを作り出すべきだ」とおっしゃっていました。これからは新しい樽砧やまた違う楽曲を作っていくことにもチャレンジできたらいいですね。

それは楽しみですね!それでは、これからの展望を教えてください。

岡澤樽砧という文化は、新潟の民衆の中から出てきた芸能なので、やっぱり時代に合わせて新潟の皆さんや街が求める形に変わりながら繋いでいくことが、本質ではないかと最近考えています。樽砧が新潟の皆さんに愛され続け、楽しんでいただくために、例えば新しい楽曲を作ったり、もっとたくさんの方とコラボレーションしていきたいです。
同時に、もともとあるものも大事にしたいし、そのために私たちは樽砧とはどういうものなのかをもっと考えないといけません。これからの新潟の中に樽砧が残っていくためにも変わり続けながら、私たちの演奏をたくさん見ていただいて、「新潟ってこんな文化があってすごいじゃないか」と言っていただき続ける樽砧でありたいというのが私の夢です。

いじめられっ子だった自分に、樽砧を続けた今、伝えたいことがある

最後に鼓山先生との思い出を一つ、教えていただけませんか?

岡澤私は、小学生の時に先生に「今までの学校の中であんたが一番うまい」って言われたのがすごく嬉しくて、伝承会に入って先生と一緒に樽を叩きたい、先生の後ろで叩きたい、先生と交代で叩きたい、先生の隣に立っても恥ずかしくないくらい上手くなりたい…と、どんどん欲張りに夢を叶えてきました。最後の夢が「先生と一緒に“みだれ”を叩きたい」でしたが、結局叶わないまま先生は亡くなられてしまいました。先生が倒れられて、亡くなる直前の頃に、先生がボソッと「今の会員の中だったらあんたが一番うまいんだろうなぁ」と言ってくれた姿が今でも忘れられなくて。その一言が欲しくてそれまで頑張ってきたんだなぁ、と改めて気がついて、帰りの車でもう涙が止まりませんでした。だから小学生だった時の自分に「10年くらい頑張っていると、いつかまた『あんたが1番うまい』って言ってもらえるよ」と言ってあげたくなるなと思ったので、10年越しの「あんたが一番うまい」が私の中では一番の思い出です。

PROFILE

岡澤花菜子 Kanako Okazawa

新潟市出身。小学校入学時に樽砧に出会い、その演奏に魅了される。小学5・6年生の授業の一環で行われていた樽砧の練習で、長年新潟樽砧の研究を重ねてきた永島鼓山氏と出会い、その才能を認められる。中学2年生の時に永島流新潟樽砧伝承会に入会して以来、妹や従兄妹とともに練習に励む日々を送り、2017年同会代表に就任。オーガニックや無添加食材にこだわった食料品店の販売スタッフとしての顔も持つ。

EPISODE MOVIE

EDITOR'S NOTE取材後記 ライター:丸山智子

第一印象のふわっと可愛らしい印象とも、演奏中の華やかでキレッキレの演奏している印象ともまた違う、岡澤さんの心の芯の強さと思慮深さが浮かび上がるお話に、何度も唸ったインタビューでした。きっと26歳の彼女の多面的な魅力、伝わったのではないでしょうか?
永島先生はこんなに心から樽砧や文化を想い、繋ぐお弟子さんがいて幸せだったと思いますし、だからこそきっと安心して新潟から聞こえてくる現役の樽の音を聞きながら、今も自分の芸の研究をされているのではないかと思います。インタビュー映像のエンドロールの後にも映像があること、お見逃しなく!