EPISODESOH 20th Anniversary

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EPISODESOH 20th Anniversary

EPISODE.5

300年前の文化を共に
掘り起こして、花咲かせる

小林履物店 4代目
小林正輝

カンッカンッカンッーーーーにいがた総おどり祭り当日、下駄総おどりで高らかに響き渡る下駄・小足駄の音は、足音であり、音楽であり、踊り子の声でもあり、見る者の心をかき立てます。そんな祭りに欠かせない小足駄を製作しているのが、全国でも数少ない下駄職人の小林正輝さん。全く家業を継承するつもりがなかった小林さんが紡ぐ、親子の絆とリアルな伝統のあり方、そして思い描く300年先の未来の“エピソード”です。

酔った父親の一言が、人生に、未来の総おどりに、波紋を巻き起こす。

まずは小林さんについて、小林履物店について、教えてください。

小林うちが創業したのが大正8年。それで去年(2019年)がちょうど100年でした。初代は和装の全般的な職人で、2代目から履物の専属職人になり、僕が約20年前に新潟に戻ってきて4代目になります。うちのように1000足単位で作れるような下駄職人は、現在日本国内には10人もいません。
特徴としては、ただ下駄を作るだけではなく、新潟市西蒲区の店舗で下駄を買うお客様にその場で鼻緒を選んでもらって、加工して、履いてもらって調整してからお渡ししています。

そんなに下駄職人が少ないとは驚きです。家業ということで、ずっと継ごうと修行されてきたんですか?

小林創業時は下駄や草履が主流でも、昭和中・後期になるとみんな靴を履くようになりますよね。着物を着る人もものを作る人も減って、街の様子も随分変わってきた。機械化、産業化も進み、僕も違う勉強しようと思ったし、親もそれを勧めた…ということが、あったんですけども!

も!?

小林全く継ぐ気もなく、東京で建築の勉強をして、そのまま20代で建築会社に就職して設計や営業の仕事に就いたんです。
時々は帰郷していて、それで親父と飲んでいる時に「もうお前は自分の好きな道を行け」という風にガーッと言うわけです。だけど酒飲んで、ふっと寝そうになった時に親父が一言「一緒に仕事やってみてぇなぁ」みたいなことを言ったんですよ。それでちょっとホロリときちゃったんです、うかつにも。それでバタバタと帰ってくることになったんです。

おいくつの時ですか?

小林26〜7歳の時です。25歳までは継ぐなんて思っていないんですよ、全然。だから、そのままならうちは絶えていたと思うんですよね(笑)。そうなると、下駄総踊りもなかったかもしれません。

偶然のタイミングが重なり、総おどりに参画したことで、何度も新しい感動に遭遇。

にいがた総おどりとの出会いや、下駄を提供するようになった背景を教えていただけますか?

小林ずっと親父が使わなくなった古い道具を使っていたんですが、3年目になる時にようやく自分専用のカンナを、与板まで行って作ってもらったんです。昔の職人っぽいですけど、3年経ってやっとみたいな(笑)。
ちょうどその頃に、にいがた総おどり総合プロデューサーの能登さんたちが、ふらっと店に来たんですよ。「約2年、総おどりというものをやっている」「地元の宝になるようなものを、新潟らしさを持った魂のこもったものを作りたい!」という話を聞いた時に、もう少し早かったら「いや、無理だよ」と言っていましたが、カンナを持って自分でできるようになったタイミングで、僕もそういう思いがあったから、もう10分くらいで握手していたんですよね。

早いですね(笑)!
実際に自分が作った小足駄を履いた踊り子たちが踊っている姿を見て、どのように感じられましたか?

小林あの人数があの勢いで踊るというのは最初は想像できず、下駄総おどりの光景を見たときは本当にびっくりして。あれだけの人数の人が、自分たちが作ったものを履いて、目の前であんなに楽しそうに踊ってくれる姿は、ちょっと涙が出ますよね。言い表せないものがあって、ほろっと涙が出ました。
そして年々バリエーションが豊富になってきたのを見た時に、またちょっと涙が出ました。

職人としての制作活動に何かいい影響はありましたか?

小林僕は直接踊りには関わっていませんが、そんな風に何度も新しい感動があって、皆さんが踊るのを応援しながら下駄を日々作ったりしていると、やっぱりいつも踊っている姿は頭から離れません。ものを作るのは孤独な作業なので、それはモチベーションにもなるし、下駄を作りながら声が聞こえてくる不思議な感覚もあるんです。人生において20年も関わり続けてきたことは、すごく宝物ですね。

かつてブームを巻き起こした小足駄は、機械では作れない職人技の結晶。

小足駄は、今の時代では珍しい形の下駄ですよね?

小林下駄総おどりができるまでは年に何足も作らない、変わった下駄した。江戸時代末期、元禄文化の頃にすごく流行った下駄で、現代ではよっぽどの和装通でなければ分かりません。でももともと親父が作っていて技術があるから、親父に教えてもらいながら一緒に、最初に6足か7足作りました。それを事務局のメンバーに使ってもらって、いい塩梅だということになったんです。

ヒールの高い靴が流行ったりするのと似ていますね。小足駄は一般的な下駄との違いを教えてください。

小林まず「下駄=木の履き物」であり、結構形や素材に地域性がある物ですが、新潟だと軽くて履きやすい桐の木が主流です。現代において一般的に思い浮かべる、歯と天板が一体になっている下駄は、こうして一枚の厚い板を割って切り出して作るんですよ(※インタビュー動画参照)。でも小足駄は、天板に溝を掘って細いホオノキの歯を入れているんです。これは歯の取り替えができるので、メンテナンスして非常に長く使えるというメリットがあります。

歯と天板をぴったりはまるように合わせる工程は、難しそうですね。

小林歯が抜けないよう一個ずつ調整しながら入れていくから、機械では作れないし、正直手間がかかります。木が収縮するから、ぴったりに切っても溝が2〜3mm広がったり縮んだりするんですよ。気候によっても変わります。だから、木目の具合とか木の重さとかを見ながら手で作っていくんです。
行き詰まることもありますが、そう言う時はMacを分解して組み上げたりして気分転換をしています(笑)。

原料はどこから入手するんですか?

小林伐採から自分でやりますが、山形や福島といった近県に切りに行ったり、地元で自分で育てていたりもします。下駄作りにおいてカンナで削るのは最後の最後。大半の時間は木の伐採や製材に費やします。

なくなっても、必要なものはいつか必ずまた花が咲く時期が来る、にいがた総おどりのように。

少し意地悪な質問になりますが、伝統はこの先、残していくべきものでしょうか?

小林日本人が日本人であるために、必要なものはやっぱりあると思います。海外に行った人が感じる日本らしさとか、やっぱり懐かしさとか元々のルーツになっているものは大事だと思っています。自分たちの祖先はここからスタートしたというものが、どこかDNAに刷り込まれているところがありますよね。

確かに、日本らしいものには自然と懐かしさを感じますね。しかし、これまでの歴史の中で必ずしも全てが受け継がれていってはいません。

小林下駄は1000年も前からあるわけです。現代において使われなくなったものでも、やっぱり使いたいという人がいなくならないんですよね。例え一時的になくなったとしても、人間の本質は変わらないから、必要だと思えばまた復活します。300年前にあった祭りがにいがた総おどりとして復活したのが、まさにそれを表していますよね。必要なものは必ずまた花が咲く時期が来る、と思います。種さえずっとどこかにもっていれば。

なるほど。確かにおっしゃる通りです。

小林下駄に関しては、需要と供給で、使う人が圧倒的に少なくなってきたから作る人が減ったのも間違いありませんが、僕は今作って欲しいという人がいれば作るべきだと思っています。
それでいろんな人たちの踊っている姿とか、使って楽しんでいる姿とかを見させてもらって、それが自分のエネルギーになってまた続けていくというのは、やっぱり人生の糧になるし、こういった経験というのは次の世代にもして欲しい。だからこそやっぱり続けていくべきです。

それでは、伝統のあるべき姿を、どのようにお考えですか?

小林姿を少しずつ変えていっていいと思っているんですよ。例えば総おどりが100年後続いていたら、またいろんなパターンのお祭りがそこに加わっているわけですよね。だけどそこには、初代の総おどりはこうだったと披露するシーンが絶対ある。その時に一緒に立ち上げに関わった人間として、その光景を見られたらまた涙が出るでしょうね。だからそんな思いで、形を変えてもずっと芯は変えずに伝統は続いていって欲しいなと思います。

どんどん進化していった先で、今の総おどりが検証されたら面白い。

小林さんにとって履物は、どのような存在ですか?

小林目の前に使ってくれる人がいて、親父やおじいちゃん、ひいお爺ちゃんたちが育て続けてここまで繋げてきたことに意味があるとすごく感じているからこそ、僕は今履物を作っています。生涯続けていきたいですね。

継ぐつもりがなく異業種に就職されたとは思えません(笑)。

小林25〜26歳の頃は全くそんなこと思っていなかったんですけど、きっとそのタネがあって、それが出会いとか何かのきっかけでパッと弾けて、ということがあったんです。総おどりとの関わりも、能登さんたちがふらっと訪ねてこなければそもそもやれないし。でもこんなアイディアがあって…と話してくれた時に、「これ面白いじゃん!」となって、「でもこれ300年前のものだよね、これ掘り起こして花が咲いたらすごいよね」という感覚で、もうパーっと盛り上がった感じありましたよね。

能登総合プロデューサーうん。

小林もう見えたんですよね、風景というよりは絵巻物を見せてもらっていたので、これやれたらいいなって。今度は今の絵巻物を残してもらって、みんな踊っている中で脇っちょに下駄を削っている奴の絵を加えてもらったりして、300年後に何をやっているか検証される時代が来たりして(笑)。そんな新しい絵巻物を描いてもいいんじゃないでしょうか。

最後に、にいがた総おどりへの期待を伺わせてください。

小林下駄の形は、下駄総おどりのパフォーマンスの進化によって、ちょっとずつ改良していっています。他の伝統工芸もですが、革新の連続があることによって、良くなっていく側面があるから、にいがた総おどりも、どんどん軸はブレずにいい意味で進化していってもらえたら嬉しいし、僕らもそこに、お力添えが出来たら本当に嬉しいなと思います。

越後桐下駄 小林履物店 オフィシャルサイト

EPISODE MOVIE

EDITOR'S NOTE取材後記 ライター:丸山智子

職人が作るものにはその人の人生が詰まっている。改めてその事実の強さを感じたインタビューでした。どんな質問にも返ってくる芯の通ったどっしりとした言葉たちは、小林さんの真摯に仕事に向き合い続けてきたからこその、年輪が詰まっている太い木の幹のように感じました。
映像の音声にもある通り、小林さんと付き合いが長い関係者もゾクっときた瞬間が「親父がぽろっと言った言葉で職人になることを決めた」というエピソード。目に見えない部分や、普段接している時間だけでは知ることができないコアな部分に触れられるところも、この企画の醍醐味ではないかと思います。
300年後に検証される現代のにいがた総おどり祭を描いた絵巻物の提案は、ワクワクしますね。制作の際は、たくさんの皆様と共に、隅っこに紙とペンを持っている人間も観客の中に混ぜてもらえたら嬉しいです。